大人の図鑑カフェ

_言の葉(ことのは)_

_言の葉(ことのは)_

最近どうも「ことば」を大事にしない人が増えた、と感じます。

販売系を軸に、とにかく人と関わる仕事をずっと続けてきてそう思うのですから、 あながち歳を喰った所為だけとも言い切れなくなってきました。(お店に来るお客様の話では無くて、実生活の中で感じることです。誤解無きよう宜しくお願い致します。)

老若男女を問わず、生きて相手に伝える言葉を喋れない人が増えています。 形の上では、きちんとした日本語になっているようにも聞こえます。 でも、”その言葉のいったいどこに、あなたの気持ちが込められているの?というような、表情の見えない言葉の羅列ほど耳に心地悪いものも、そう無いんじゃないかとさえ、思う事があります。言葉は悪いですけれど、ペラッペラで感情も中身も無いんです。

唐突ですが、 自分の話している日本語を、方言(ローカル)だと感じたことはありますか? 「いや、私は標準語喋ってるし。」と考える方も多いでしょうが、言語学や心理学で突き詰めて言うと、出身の地方に由らず、一人一人が話している日本語はすべて、方言(ローカル)だと思って差し支えないと思うのです。(※あくまでも私見です※)

では何故か?話をするとき、人は日頃から正確な言葉、正確な意味を考えて言葉を話したり、汲み取ったりしているわけではないはずです。曖昧なイメージから言葉を選び、未消化のまま聞きかじった単語を使う。頭の中にド正確な辞書が入っている人など居ません。それは当たり前のことだし、言葉の意味が十年百年単位で変化してくる正しい在り方なので、そこを責めるつもりもありません。

むしろ気にするべきは、”その言葉を使う人が持つ価値観がどこにあるか”なのです。

言葉が選ばれる背景には、その人が持つ文化があり、価値観があります。 同じ価値観を共有する人というのは、選ぶ言葉が似てきます。逆を言えば、価値観が違うと思われる人と話をするときに、同じ言葉のチョイスでは意味が通じない場合があるということを意味します

二十年以上前の話で言えば、時代や地域ごとに大きな価値観の塊がありました。話す人の年代を見、出身地を聞けば、わりと素直に言葉選びが出来ました。文化も全国一様に同じ物が流行り、教養として通読する古作名著も同じ物でした。つまりは、物の善し悪しは別として、ある程度通底している価値観が一様だったんですよね。

が、今の時代は違います。価値観の多様化の弊害として、言葉の解釈の違いがダイレクトに現れてきたのです。極端な話をすれば、クラブワード(後述)やハウスワード(後述)というレベルの親しい仲間内でしか通じない言葉が爆発的に増えています。

確かに、そういった言葉の問題はいつの時代にもつきもので、特定層でしか使わない言葉(※スラング)が次第に広がり、それが「流行語」となり、そのなかから市民権を得た言葉が、そのまま新しい日本語の意味として定着していくわけです。 問題は、その言葉たちを方言(ローカル)と意識して使っているかどうか、ということ。

言葉は、相手に通じなければ意味をなさないものです。 つまりは、相手の価値観の中で通じる言葉を探して使うことが、伝えることに必要になります。

自分の思っていること、考えていること、
楽しくて楽しくて伝えたいこと、
悲しくて聞いてもらいたいこと、
自分の価値を理解して欲しいこと、
苦しさを感じてほしいこと、
傷みに気づいてほしいこと、
零れるぐらいの嬉しさを伝えたいこと、

ほんとうに、伝えられていますか?

伝えたと思っていることは、
自分語(自分だけにしか意味が解らない言葉:今回の文章のための造語/心理学では一者言語)ではありませんか?
もしくは、狭いグループだけに通じるハウスワード
(家や近親者、もしくは業界だけに通じる暗号のような言葉:今回の文章のための造語/心理学では二者言語)ではありませんか?

もちろん、意識距離が近くて、価値観や文化が親(ちか)しい人は問題になりません。
逆に意味が通じる範囲が狭い単語ほど、そのグループの繋がりを再確認するキーワードとして親近感を持って作用しますから。

問題は、それらのローカル言語を仕事などで、年代差があったり異なる地域や文化を持つ相手に平然と使ってしまうことです。

と、書くと、
「若者が年長の人に無礼な言葉を使う。」
という文意に流れがちですが、実際は逆なんですよね。
「年長の人ほど、若者の言葉を汲み取ろうとしていない。」

お互いがお互いを想い合うから、言葉は言葉として成立するんです。 伝えたい相手の背負っている文化や価値観と、きちんと向き合っていますか?

子供は概して言葉が足りません。それは、それまでに見てきた世界が狭いからで、多様な価値観に触れて居らず、選べる言葉をたくさんっていないからです。

そして、高校生でも、大学生でも、社会人になっても、また、初老になってまでも、 狭い価値観の中に留まってしまった人は、言葉もまた、相手に合わせることが出来なくなってしまうんですよね。

言葉を話す、というのは、ある意味で心の中の吐き出し機能です。

悩みというのは、その悩みが根深いものほど当事者に近い相手には吐き出すことが難しいものです。例えば家庭の問題は家庭や近所では相談しにくいですし、学校の問題は同級生や教師にはなかなか話せません。(※だからネットで吐き出している人も数多く居ますが、素性が解らない人との会話では相手の言葉には”責任感が欠ける”ので親身になって相談に乗ってくれるかと言えば、、、そこには弱った人をカモにする闇の方々も潜んでいるので最善と言う事は出来ません。かくいう私は、まだコンピューター通信と言われる時代「ネチケット」と呼ばれるような良心の残って居た頃に救われた独りでもあるのですが、、、※)

世界が狭いと、悩みを吐き出そうと言葉を紡ぐも、自分の伝えたいことを、違う価値観の世界にいる人に伝えられない状態に陥ります。自分語やハウスワードを標準語(相手の価値観という意味での心理学で言う三者言語)にうまく置き換えることが出来ないから。 そこを上手く標準語に置き換える方法を習うのが、そう、国語です。(実はこれ、解っていない先生も多いんですよね、、、)

言葉を上手く伝えられなくなってくると、この吐き出し機能が効かなくなってくることになります。極端な話、それって自らを閉ざす事に繋がりかねない部分だと思うのです。

職業柄、色々な子供(高校生)を見てきて、自分を閉ざしていた子の多くは、漏れなく言葉を閉ざしていました。 感覚語としての「ムカツク」や「ウザイ」「キモイ」などは、自分の体のモヤモヤした感覚を言葉にした、いわば原初に近い身体言語で、どの時代にも若者言葉として言葉を換えて存在しています。吐き捨てるように使うのは、暴力的とも言える感情を辛うじて言葉で抑えているから。自分の状態すら言い表すことが出来なくなってくると、こうした感覚言語(身体言語)が増えてきます。そして、最終的には拳で語る状態に、、、 (殴り合うのも立派な言葉と言って良いのですが、当人が凹むのを見るのも辛いからなるべく避けて欲しいかなぁ)

だから、 そうなる前に、恐れずに、話をして欲しいなぁと思うのです。

幼少の頃は、言葉を使わなくても親が察することが出来た。 むしろ、言葉を使えないからこそ親がそこをフォローしていた。中学生高校生ともなると、親も変なところで安心してしまうんですよね。表面の言葉に乗せる感情の裏側で、自分語と感覚言語しか出てこない事に気付かなくなってくる。”言葉を使えていない”、”感情の吐き出し口がない”、という意味では、全く同じ状態のこともあるのに。(これが大人でも同じ状態のままだと「鬱」になりやすい)

僕は確かに、「弁当屋(※当時)」の分限を外れることは出来ないでしょう。あくまでも雇用主だし、もちろん教育機関でもない。ただ、これでも一応は教員免許や社会教育主事の免状を持ち、司書、学芸員と歩みを進めた人間です。特に社教はハンディキャップドパーソン(障碍者)やジェンダー、精神疾患からの自立を目指す人の生涯の学びと関わってきました(公益社団法人日本盲人会連合での実務を含む)。

ということで、いろいろと誤解されがちですが、 私はどちらかというと教師寄りというよりは社教(生涯学習としての学びをサポートする方向)寄りで、勉強のことをとやかく言うのではなく、 年齢を問わず、よりよく生きるための学び方をサポートする性分です。 合い言葉は「学校だけで終わらないことを学ぼう」。

この頃(※2013年頃)はいろいろと要望があったため、スタッフの色々な悩みと向き合うようになりました。(それまでも、決して疎かにしていたわけでもないんですが、踏み込む領域を何処までにするかという線引きがわりと浅かった。)結果として施設送致、故郷へ送還など、色々な事がありました。生活再建の筋道を立て、それが軌道に乗った子もいれば、 もう少し話してくれるのが早ければ、、、と、悔やまれる例もたくさんありました。

自分にとって辛いこと、厳しいことを話すのは大変なことです。 ただ、その大変なことと向き合わず、 だんだんと自分を追い込んでいくのは不幸の呼び水になります。

僕は慎重に、そういう子達の言葉が劈(ひらか)れるのを待つほかはなく、そのための環境を整えることが、今の仕事なのだろうと考えています。 願はくは、一度縁を結んで引き受けた子達を、きちんと社会に送り出したい。大それた事かもしれませんが「ひとのこ(人の子)をヒトノコ(他人の子)」にしてしまわないよう、心掛けています。

それが既に、弁当屋(図鑑カフェも、かな?)の分限を外れていることは自覚しつつも、中学の時に目指していた教師、高校の時に目指していた司書、大学の時に目指していた学芸員、社会人になって大学に入り直して(科目等履修生)として取得した社会教育主事、それが一本の道に繋がって、今の私の性分を作っているのだなぁと、最近は良く思います。 来年度の目標は、科目等履修生(叶うなら練馬区特別履修生)として武蔵大学で学ぶこと!そして目指す究極は、駄菓子屋の婆ちゃんです! (男ですらないのかよ)

失敗だらけなんですけどねぇ。(>_<)

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note

初出:mixi日記 2014.08.31「失敗続きなんだけれども」

実際問題として、
年齢が大きかろうが小さかろうが、
言葉(悩み)をキチンと吐き出せていない人は多くいるものです。
どうにかなってしまう前に、ちゃんと誰か、身近な人や、
全く関係ない人に話して、スッキリしちゃうのも手です。

とか何とか書いていた間に、前職を辞し、何の因果か半分社会教育に足を突っこんだ【図鑑カフェ】なるものを開いていました。そういった経緯だからこそ解ることもありますし、もちろん人の気持ちを推し量れるなどと傲慢なことは思いません。ただ、こうしたトポス(※場所)を開いた以上、なるべく楽しく、皆様の学びのお役に立てたらと思うのであります。

<関連記事:「夢見る頃を過ぎても(その1)~(その3)」>
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