大人の図鑑カフェ

_なんのために人は学び続けるのか_

_なんのために人は学び続けるのか_

令和10連休も終わり、海の日も終わり、
二期制も三学期制も中学・高校ではもう夏休みでしょうか。
梅雨寒がようやく抜けた途端の酷暑と共に、
少し前に騒ぎになった「不登校youtuber」と絡めて、
相変わらずカフェらしからぬ戯れ言を書いてみようと思います。
(初出:2014.8.28 当時は弁当屋だったFacebook日記に手を入れました)

まぁ、学園祭に協賛したり、イベントには社会教育的要素をと自称しているカフェですから、たまには皆様の夏休みに役立つ話題でも一つ、、、という事で御勘弁下されば幸いです。なお、私自身が前職(弁当屋)時代から、そう言った考えで従業員もしくは学生時代の先輩後輩と接していたため、書きにあるような相談事は実は今でも結構、、、
顔を出してくれて嬉しいやら、その顔が曇っていたら悲しいやらでもう、、、
(先日は中学時代の部活の後輩”しかも現役生”がお母様方と3組ご来店下さいました。下手すれば、、、というか普通にそのぐらいの年齢の子供が居てもちっともおかしくないのですが、、、お恥ずかしながら現役当時のお話しを”参考”としてお話しさせて頂きました。そしてその後のOB会の模様です。)

赤点魔神の学生君達から
「勉強ヤダ。試験ヤダ。何のために勉強するの?」
なんていう問いを時々受けます。
期末考査が近くなると「教えてくれ~」としがみついてきたりもしますが、
たいていは盛大に爆死しているようです。

まぁ、アホな子ほど可愛いし、
ジタバタしてる子ほど、どうにかしたいと思うのが大人の常ではないでしょうか。

とはいえ、
こちらは一介の雇用主(※当時)です。また、あんまりにも勉強しろ勉強しろと言う性格でも無し、かといって、頭は悪くないように見えるのに、使い道を解っていない子を見るとヤキモキもします。なので余計なお節介はしないにせよ(したくてウズウズしているのはお解り頂けると思いますが)頼ってこられたときには、それなりの言葉を選んで掛けるようにしています。今はカフェですので、お客様の詮索はむしろ無粋と考え、話し掛けられた方のみ、お話しをするようにしています。
あ、天気や健康の話ぐらいはしますよ(^_^) 心配事は皆同じですから。

大学生にもなれば自我があって当たり前なので、そこをなるべく大切にして、言いたい事はそれなりに抑えます。自身に確固たる行動原理があって駄目な結果が出ている場合と、惰性でやって悪い結果が出たときは、掛ける言葉が違うのはもちろんの事です。

ということで、ここから書く事は、基本的に高校生(や親御さん)向け、ということになります。にしては、ちょっと優等生的な物言いな部分もありますが、まぁ、夏休みのレポートだと思って読んでみて下さい(笑)。

「したくなければ、しなきゃ良いんじゃないの?
 その先どうなるかは知らないけど。」
業務中にはこんな具合に流してしまうこともありますが、時間が許せば(そして相手が本気で訊ねているのなら)、それなりの答えをするように心掛けています。

人によって答えは様々だろうと思いますが、
「学ぶことは、その教科によって違う【考え方】を身につける事だろうなぁ。」
と、僕は答えています。

学問の数だけ、「考え方の道筋」がある。
国語には国語の、数学には数学の。もっと細かく言えば、地学の、地理の、化学の、政治の、経済の、統計の、農業の、畜産のと言うように、それぞれ学問の道に独特の考え方や物事の捉え方があって、それを修めるのが学ぶことなんだろうと。
もちろん、その「考え方」や「捉え方」の解釈は学ぶ人それぞれに違う事もあるけれど、自分なりの道筋を見つけられるかどうかで、その学問への身の入り方が変わってくることだけは、確かです(そこが教師や親の腕の見せ所)。自分がその教科を学ぶことで、知らないうちに考え方の枠や方向性が広がってくるのを感じる事があるのではないでしょうか。「ああ、そういう考え方もあったんだ。」と。それが、”視野の広さ”と繋がっていくんですよね。

考え方を知らなければ、思いつきもしない事がある。”勘”が働くのも、その根拠となるある程度の情報網が頭にないと起こらないこと。そのための基礎情報が頭にあるのと無いのでは大きく違う。そういった「生きていくために必要なだけの基礎情報」や「考え方の道筋の入口」を強制的にでも叩き込むのが親に課された【義務教育】な訳です(ユネスコ学習権宣言)。

話題になっていた(既に過去形にしておきます)小学生不登校YouTuberさんとやらは、いじめを受けている訳でもなく、世界中にいるネグレクトや貧困により学ぶ機会を与えられていない児童とは明らかに「不登校の論理」の”質”が異なります。(宿題を命令と捉えて、それを何のの疑問も無くキチンと提出する同級生がロボットに見えるとか言ってますからね、、、誰だって宿題なんて嫌ですよ、、、)仕方の無い理由があり、手をさしのべる必要があるならば、それは福祉の分野も絡んできます。

ピンチの時に妙案が閃く頭も、順調なときに俯瞰できる視野も、考え方の道筋の多さに確実に比例します(実体験)。【強制的にでも体にたたき込む】と書くと暴力的に感じるかも知れませんが、自分の好き嫌いによる選択に無い考え方を体に取り込ませる、と、ご理解下さい。よく、「経験によって培っていくことこそが大事だ」と言われたりもしますが、”経験というのは、割と自分で選択している生き方に左右されてしまう”ので、その実、思いの外に取りこぼしている考え方が多くあったりするものです。だって、嫌いな物からは皆、なるべく遠ざかろうとするものですから。(そこを我慢して逃げずに勉強するのが義務教育機関の小・中学校です)

何らかの危機的な状況に陥ったとき、どれだけの手段が自分に残されるか、それはもう、自分の頭にかかっているわけで。

突き放すようですが、
高等教育機関である高等学校以降なら、イザと言うときに思考停止するようなトンチキ頭に責任が取れると言い切れるのなら、学ばない生き方もアリです。そのかわり、困った時に軽々しく行政(税金)に支援を頼んだりしないで下さいね。(ニッコリ)

また結果的に、ですが、“知識の量”は後でいくらでも付いてくる、と思います。むしろ知識はその後の社会での経験を積み増していくことで、考え方の道筋が交わり、一つの事柄が他分野と繋がって爆発的に増えるもの。
一つの知識(情報)を一つの事として処理せず、他分野と繋げて考えられる脳内ネットワーク(各種学問の考え方の道筋が編み目のように絡まって広がっている状態)の広さこそが、俗に【知恵】と言われるものです。そのネットワーク、各学問の筋道というモノは、頭の柔らかい時期に多様な考えを詰め込む事で養われる事も多いのです。

知識の量、それももちろん大事ですが、それを他の分野と繋げて考える道筋の多さが、学問の数だけ存在するという事に目を向けてほしいなと思います。知識(情報)は樹形図の枝分かれではなくて、網状のネットワークに乗せるべきものだから、考え方の手数の多さは、危機を脱する道の多さと直結する。「そのために学問を」と考えてみると、多少リアルに、危機感が出てくるのではと、思う。ただこれは、社会経験を長く味わった人にしか実感できない事かもしれないですよねぇ、、、

と、あまり危機感ばかりを前面に出しても「面白くない」ですよね。この考え方自体もちょっと「教師」的かもしれないし。抽象論でもあります。僕自身、あまり恐怖を煽って無理に学ばせるのは好みでもないので、各論(例えば国語はどうして勉強するの?いつもみんな普通に話しているのに)については、ひとつひとつ、その教科の考え方の道筋について一緒に考えながら(考え方にいたる解法は各自一様ではないので)答えています。、、、偉そうに何を書いているんだか、、、

長くなったので、分割。
次は「国語」なんですが、ひろい意味での「ことば」を扱ってみます。
この時間から書き始めて、、、寝る時間までに書き終えるだろうか、、、

<後編:言の葉(ことのは)に続く>