_最後にお手紙を書いたのはいつですか?_
そんな問いが書かれた企画展
【少女たちのお手紙文化1890-1940展
_変わらぬ想いは時を超えて_】
案内状(チラシ)が店に届いたのは昨年の暮れ。
折しも年賀状を出すか出さないか、、、という時期でした。
賀状は添え書きこそするものの、
お手紙(封書)に込める想いとは少し、違うように感じました。
堅く言えば儀礼的というか、
いわゆる私信とは微妙に、ちょっとだけ外れた感覚があります。
そのニュアンスの違いを少し、私的な言葉で紡いでみようというのがこの雑記となります。お付き合い頂けましたら幸いです。
年賀状を書こうかという折も折、「郵便料金の値段が上がる」というニュースが飛び込んできました。様々な理由が挙げられておりましたが、”手紙を書く” という機会自体が減っているという理由には、誰しもが頷く事と思います。
冒頭の問い
_最後にお手紙を書いたのはいつですか?_
という言葉がリアルに心に刺さったのはそんな時でした。
近頃は…。なんて書き出すと途端に年嵩に思われそうですが、
「電子メール」「各種SNS」「メッセージアプリケーション」と、より即時速達性の高いコミュニケーションツールが手近となっている昨今、インスタントな便利さ故もありますが、”伝える内容そのもの” の短文化(単純化)や、簡略化が一緒に起こっているように思います。
即時性を優先すると、反射的に伝えられる内容としてはどうしても浅薄になりがちです。当意即妙と解すれば少し面目も立つところですが、それを許せるのは気の置けない間柄に留めるべきかもしれません。
とはいえ、その手軽さと心理的ライトさが時代とマッチしている良い部分であるのは間違いないでしょう。
「コスパ(コストパフォーマンス/費用対効果)」だけでなく、ここ数年では「タイパ(タイムパフォーマンス/時間対効果)」という言葉が様々な媒体に踊るようになりました。
活字を共とする人間には耳に馴染まずムズムズしてしまいますが、溢れんばかりの情報の海を上手く泳がなければならない世代にとっては、取捨選択を迫られての自己防衛なのかとも推察します。
また、これは手紙とも似通っていますが「電話のように相手の時間を取らせない」という意味でも非常に便利です。更に、その短文に情緒を補うように発達した顔文字や絵文字、スタンプと言った文化は、文章で表せない “行間” を埋めるという意味で、大変興味深いと言えるでしょう。
そんな時代背景事を受けて、さて「お手紙」です。
日記帳や手帳といった “日常の記録” もそうですが、
_手書きで文章を書く_
といった場面まで、現在は減ってしまいました。
昔は、社会人になる時に父や先輩から万年筆を贈られたものです。
「この万年筆が板に付くほどの人間になりなさい。」
これが今はなかなか難しい。
ボールペンで充分に事が足りる世界で、万年筆はとても贅沢品になりました。
それと同様に、
自分の今日の一日を思い返し、下書きを書いたり直したり、インクを詰め替えたり…。そもそも一日を振り返って言葉に置き換える時間すら、今や贅沢な時間となっているように思います。
頭に入れた情報というのは、インプットするばかりでは自分の血肉になりません。なんと言いますか、”借り物の知識” なんですよね。そこからその情報を人に話したり、紙に書き出すなどアウトプットをすることで咀嚼(整理)され、だんだんと自分の言葉に「訳せる」ようになります。そこで腑に落ちる感覚を得てはじめて、その情報は “自分の知識” として消化したと言えるのではないでしょうか。感情も同じで、溜め込むばかりではパンクしてしまいます。吐き出したい辛さ、共有したい愛しさなどの感情は、書き殴りでも良いですから先ずは紙(例:黒歴史ノート)に書き出してみましょう。少しづつではありますが、自分を客観的に見られるようになると思います。そして日記を書き終えたら、翌日の昼にでも見返してみましょう。きっと赤面する事と思います。
_夜書いた手紙をそのまま出すな_
と良く言われますが……いや、まぁ、やって頂けたら解ると思います。恥ずかしくて身悶えする場面がきっとあるでしょう……。
日記を一晩寝かせる事で、その時自分が気付かなかった新たな感情や視点が見つかるはずです。例えば、感情にまかせて書いた字と普段の字を見比べてみて下さい。誤字脱字があれば辞書を引いてみましょう。慣用句に言い換えられないかなぁ、確か似たような意味の慣用句や川柳があったなぁ。そうした作業をするうちに、前日に得た情報や感情はいつの間にか自身の血肉となり、感情の高ぶりも少し抑えられるかもしれません。新型感染症のため様々な自粛を迫られた時には、手紙の投函数が増えたと伺いました。やり場の無い抑圧(負の感情)を、ご機嫌伺い(正の感情)に昇華できたのだろうと思います。紙に書き出すことで気持ちの整理が付いたのかもしれません。
_手紙とは、手で書いた紙のことです_
まんまじゃん。
と、言われそうですが、
紙に書いて相手に届けるということは、前段で書いたように自分の頭の中と格闘する作業が待っています。相手を想えば想うほど、その作業は複雑になるかもしれません。”どう思われるだろうか” とか、”馬鹿なことを書いていないだろうか” とか。
でも、ここでちょっと立ち止まって下さい。
_相手に伝わればそれでいい_
という感覚自体は、現代の電子メールやSNS、メッセージアプリとその実、本質としては何も変わっていなかったりします。
手紙を書かなくなったのは、先述のような面倒臭さがハードルになっているように思うんですよね。書いては消し書いては消して頭を整理したり、相手が好きそうな便箋や切手を選び、なるべく丁寧に清書をしたり。”贅沢な時間があってこそ” の『敷居が高くて感情が重いもの』と考えていらっしゃいませんか?
文章の卓袱台返しのようで申し訳ないのですが、
いや、別に、何も飾らず、”そのまんまで良い” んですよ。
例えば、「そろそろどっか遊びに行こうせー!」
この一言を便箋に書いて封書で出すだけだって全然OK。
手紙?何で?重くない?
そう思って開けた手紙がこんな簡単な一文だったらどうでしょう?
「手間暇掛けて、なに書いてんだよ」と即座にメッセージアプリで返信するか、電話を掛けるかもしれません。
でも、心のどこかで『やられたなぁ』と、少しくすぐったく、嬉しくなるんじゃないかと思うのです。きっと電話の声は弾んでいることでしょう。
現に私は友人から「此度は誠に大儀であった。」という筆ペンの手紙を貰ったことがあります。『なんだそりゃあ』と盛大にズッコケつつ、そこに至る手間暇を考えるに、贅沢な嬉しい手紙だったと。数十年を経た今でも記憶に留まっています。
・手紙に込められた「想いが重い」
・手間暇掛ける「時間が無い」
・字が汚かったり、誤字脱字があったら「恥ずかしい」
そんなもん、一回取っ払って良いんですよ。
ちょっとした悪戯気分だって、それはそれで “乙” なものです。
文房具屋で洒落たレターセットを見つけた。じゃあ、これで誰かに何か書いてみるか。ガラスペン、万年筆、格好良いじゃん、なにか書いてみようか。
それぐらいライトな感覚で手紙を見直してみたらどうでしょう。
今はレトロ文具の文脈からか、ガラスペンや万年筆、カリグラフィなど、インクで書く文化も再燃しているように思います。今がトライするチャンスですよ!
今の時代は「時間が一番の贅沢品」です。
余暇や余裕がないとは言っても、その時間を敢えて割く。
そんな行為を “洒落ている” と呼ぶのでは無いでしょうか。
表題には画家、井上直久さんの画集「イバラード博物誌IV_思い届く日_」より拝借致しました。
“手で書いた紙(文)” が “手元に届く”。
_思いを送り、届くまでのタイムラグ_
それはきっととびきりに贅沢なスパイスで、きっとウキウキで彩りのある生活が始まるような、そんな予感がするのです。
【企画展案内】
・少女たちのお手紙文化1890-1940展
_変わらぬ想いは時を超えて_
<町田市民文学館ことばらんど>
・住所:〒194-0013 東京都町田市原町田4-16-17
・電話:042-739-3420 FAX:042-739-3421
・交通:JR横浜線町田駅ターミナル口から徒歩8分
小田急線町田駅東口から徒歩12分
・公式ホームページは(こちら)企画展記事は(こちら)
・公式X:https://twitter.com/machida_kotoba
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