__かさねつつ。
だと思ってました。
淡い恋なんぞを学舎の思い出にするのかなと。
初恋は実らないって言うし(笑)。
正解は
「書よむつき日 かさねつつ」
なんですね。つい最近知りました。(遅ッ!)
まぁ、小学校の唱歌で色恋なんぞ取り上げるほど文科省も軽くはないぞ。
などと自分の勘違いに軽く毒を吐いてみます。
(文と聞いて文章ではなくて恋文を想像するあたりが特に痛い)
さて、気を取り直してもう一曲。
♪懐かしい、あの想い出~
というわけで、そろそろ巣立ちの季節です。
周辺大学の学生や社会人の単身世帯が多い桜台、
お店のお客様も若干入れ替わる、そんな季節。
弁当屋時代もそうでしたが、
お客様が引っ越しの挨拶に来店されたり、ということも多いです。
皆様律儀ですよね。有り難いといつも思います。
さて。
この歳になり、
昔々に強制的に歌わされていた唱歌を色々と思い出したりします。
2曲目はいわずもがな「巣立ちの歌」ですが、
改めて歌詞の言葉をひとつひとつ読んでいくと、
情感豊かで、とても好きな歌です。
「歌い継ぎたい」とか、そういった高尚な想いはありませんが、
それでも、大事にしていきたい歌をきちんと心に持つ、
というのは、それなりに栄養になるんじゃないかと、思います。
歌詞の中で教師を持ち上げすぎだとかなんだとか言う方々も居て、
卒業式でもそう簡単に歌わせてくれなくなっているらしいと耳にしましたが、
そういった方々は不幸にして、
影響を受けるような素晴らしい先生に出会えなかったのでしょうか。
(出会おうともしなかった可能性も高いけれど)
そういう言う私でも、
この歌を自分の心で歌えたのは、さて、いつだったのやら。
少なくとも、高校を過ぎてから先の話、、、でしょうか。
「歌わされる」と「歌う」の差は大きい。
曲を聴き、重ねた月日をどれだけ思い巡らせるかで、
想いの入り方もきっと、違うのだろうな、と。
中学高校時代、
とにかく自由で度量のある学校にいました。
手順を踏んで教師さえ説得できれば、
割とあらゆる事を自由にやらせて貰えました。
そして、生徒が窮屈に感じない程度に自由に出来ると言うことは、
裏を返せば教師がその責を負うことを躊躇わなかったと言うことでもあります。
いまにして思えば、結構な無茶も通ったし(高校時代からブッ飛んでました)、
その影で庇護してくれた教師がいたことを、ずいぶん後になって知りました。
(確か、教育実習後の飲みの席だったと記憶しています)
果たして私は、担任や顧問に何枚の始末書を書かせた事やら、、、
想像するだに、、、ホントに申し訳ない思いです。
社会として大人が子供に出来ることの一つに、
「庇護」があります。
子供の可能性の芽を摘まずに、物事をやり遂げるまで護ること。
実は容易なことではないんですね。
社会教育に携わりたいと大学時代に教免を取り、
社会人になってからも、
夜学の聴講を続けて社会教育主事、司書&司書教諭、学芸員と学びました。
(司書・司書教諭・学芸員は単位履修途中で、まだ諦めていません)
これらの資格に共通して言えることは
対象となる年齢を問わず「学びの芽を護る」事です。
そして、振り返ってみた学生時代が、
いかに環境に恵まれていたかを痛いほど知り、
「巣立ちの歌」に込められる想いが、一層強くなりました。
少し脱線しますが、
誰しも、何年も聴き続ける曲が、あると思います。
当時の流行歌を聴き返して、あふれ出る想い出もまた、様々にある事でしょう。
でも、どんな曲であろうとも、
想い出をリロードするためには、
曲と共に感じ入る想い出が無いと、ね。
現在はある年代全体を巻き込んだ流行歌というものが少ないようですが、
社会人になって日々に忙殺され、
曲を聴き込む間もないというのは、寂しいですよね。
「はやりうた」を追う必要はないけれど、
自分の好きな曲や歌に、今の自分と感情をどう、埋め込むのか。
それって、数年後、数十年後の為に、
必要なことなんだろうなと、思うわけです。
ここ最近の写真がたくさんあったとしても、
時代を記憶する曲が欠落してしまったら、
その年代の記憶は無声映画になってしまうのかな。
なとと思ってしまったり。
その昔、
後輩の高校卒業祝いの席で、
三年間の後輩に同じCDを計十数人に贈ったことがあります。
(ジョージ・ウィンストンの
『All the Seasons of George Winston』)
同じCDを贈ったというのは、
当人達は気付かなかっただろう、小さな意味を込めていました。
贈った意味というのは、
「文化を残したかった」から。
簡単に言えば、
「同じ音楽を同じ時期に聞いて欲しい」ということ。
ある一定の年齢になると顕著に感じることだろうと思いますが、
昔の話題を思い出しながら話しているときに、
そういえばあの時はこんな音楽が流行っていて……とか、
そう言った話題は必ずと言っていいほど出てきます。
それが本だったり漫画だったりゲームだったりと様々ですが、
「一緒に何かを体験した」ということに対する共感というのは、
ずっと後々まで、話題になるかけがえのない財産です。(※収録曲中のパッヘルベルのカノンは、高校3年間を通した天文活動(文化祭プラネタリウムや合宿・流星観望会など)の場で流し続けた曲です)
ただ単にクラスが一緒というだけであっても、
修学旅行や移動教室、学園祭や飲み会・イベント・旅行などなど、
「一緒に何かを体験して、共感することが一つでも多かった人間」
それがそのまま、かけがえのない友人になってゆくのですから、
その共有する体験の一つ一つは、
人と人とを結びつける、
ごくごく小さな、けれどもとてもかけがえのない、
接点に他ならないわけです。
そしてたくさんの人間が同じ体験をするというのは、
その小さなコミュニティの中で紛れもない
「文化」につながってゆくんですよね。
僕がfumikuraでお客様との接点となるイベント(プラネタリウムなど)や、
話の切っ掛けになるようにと様々なフェアを組むなどのアクションを起こすのも、
すべては「体験の共有」を望んでいるから。
考え方の違いはあって当然、
趣味趣向、物の好みも違って当然、
でも、「同じ時期に同じ体験をした」というその一つ一つが、
お客様との輪を少しでも強くすることは、
間違いのないことなんだと、大袈裟でなく僕は考えています。
「大きなお世話」と思う向きもあるでしょうが、
ふと気づいた時に「あそこであんなフェアやってて、こんな本読んだなぁ」、
などと、巣立ちの道の先で想い出して貰えれば幸いです。
うざったい無粋な押しつけではありません。
ですので、どの本やどのフェア・イベントがお客様の心に届くかどうかは、
正直わからないです(笑)。毎回反応を見つつの試行錯誤しています。
ただひとつのきっかけに過ぎないのですが、あわよくばいつかそれが実れば良いなと。
fumikuraがお客様にとって、どのような存在であるかも解りません。
ただひとつ、お店としてどういった姿勢で常にお客様と向き合っているのか、
一つの見方として心に留めて頂ければとおもいます。
「過去を振り返ると同時に、今を、残す。」
当店での大切なテーマです。
__『あけてぞ今朝は別れゆく』この節目の季節に
fumikuraでかさねた『書(ふみ)よむ月日』が
『懐かしい、あの想い出』になることを、願って__
巣立ちと門出と、転勤転職の皆様、どうぞ人生の道中お気を付けて!