大人の図鑑カフェ

蜜柑の香せり、冬がまた来る

蜜柑の香せり、冬がまた来る

fullsizerender-7__街をゆき 子どものそばを 通るとき
    蜜柑の香せり 冬がまた来る__ 

この時期になると思い出す一節。

恥ずかしながら、つい最近まで啄木の作と信じ込んでいたのだけれど(詩集まで買って「載ってない」とガッカリした)、どうやら木下利玄という人の作とのこと。無知ですねぇ、、、

相変わらず蜜柑の香りが好きな私には、冬の到来はすこし、こそばゆい。独り暮らしになってからは箱買いで馬鹿食いという訳にもいかなくなったのだけれど、いかにも日本人的な冬アイテムとして、蜜柑の香りに懐かしさを抱く。

最近は私が子供だった頃ほど、街なかには蜜柑の香りがしなくなった。むかしは利玄が詠んだように、子供の傍を通れば、確かに蜜柑の香りがした。小学校の給食でも、けっこう蜜柑は出ていた記憶があるが、最近はどうなのだろう。

担任が、給食で出た蜜柑の皮を集めて、円筒形のガスストーブでマーマレードを作ったことがある。有志は中身も供出していたけれど、食い気の多い私は出さなかった(コラ)。授業中、ストーブから甘~い香りがトロリと教室を満たし、日がな一日ゆっくりと煮られたマーマレードは、担任がこっそり密輸してきたクラッカーと共に、僕らの旺盛な胃袋にまぁるくおいしく納まった。今になってみればの、良い思い出(昭和ですね)。

そんなわけで、冬と柑橘の日本人的情緒関係については問答無用の前提として話を進めます。

先日、来店された老紳士のお客様がオレンジ珈琲を「なぜか懐かしい味がします」と仰いました。その後、理由を考えられていたようで、しばらくしてから「祖母の家で昔飲んでいた【蜜柑茶】の香りがする」という答えを頂きました。製法はオレンジ珈琲のオレンジとほぼ同様、干した蜜柑の皮をお茶と一緒に煎じて飲むんですね。なるほど、と納得。おいしそうです。蜜柑の皮は七味のひとつ「陳皮」として漢方でも有名ですから(※七味:芥子・陳皮・菜種・麻の実・山椒・胡麻・唐辛子)、そういった飲み方も確かにアリですよね。緑茶は出していませんが、そういったアプローチもあるのかと、改めて教えて頂いた次第。老紳士のお祖母様ですから、それこそ明治頃の方でしょうか、「こういった場所でまさか祖母を思い出すとは」とおっしゃられ、私もなんだかほっこりした気分になったものです。

オレンジピールと珈琲豆を別々に挽き、一緒に抽出しています。オレンジの爽やかな香りがひろがる、後味のすっきりした珈琲です。
オレンジピールと珈琲豆を別々に挽き、一緒に抽出しています。オレンジの爽やかな香りがひろがる、後味のすっきりした珈琲です。(650円)

 

そういえば昔、実家の居間には火鉢があった。しかしやはり畳間で火鉢、という訳にもいかなくなり、茶の間式の石油ストーブに変わることに。直径1mちょい、高さ7,80cm程の円筒形のそれは、茶の間にどっしり鎮座ましましていた。火鉢の代わりと言うだけあって、火の上で煮炊きできるような形状で、いつも薬缶やら鍋から湯気が出ていた。

正月近くなると決まって、金柑を煮た。金柑に切り込みを入れて竹串で種をほじり出すのだが、めいめい炬燵でホジホジするにも器用不器用はあるもので、皮が破れるは、種は取りきれていないは、それはそれは当たり外れの激しい金柑の蜜煮であった。煮るときはやはり、金柑の匂いが部屋に優しく広がっていて、学校から帰ってひとツマミ、夕飯前にひとツマミ、気が付くと鍋の中身は著しく減っていたりして。それで結局また切り目を入れてホジホジすることになるわけで、、、

冬支度の一コマと共に、私は今も街中に柑橘の香りを求めて、やまない。

dscf0998_r(写真は2006年頃、自分で煮ていた金柑の蜜煮。オレンジキュラソーを入れて若干洋風にアレンジしています。林檎も白ワインで仕立てたソース風で、紅茶やシャンパンに落として飲むのが鉄板でした。もちろんそのままでも良いし、緑茶にも合う合う(^_^))ご要望が集まればあるいは、、、(笑)

 



2 thoughts on “蜜柑の香せり、冬がまた来る”

  • 木下利玄さんの「冬がまた来る」の歌は、もう40年近くもまえに高校で習った作品ですが、国語の先生が話したことをいまだにおぼえています。幼くして逝った子どもを悲しみ、そのせつなさを詠んだ歌。「また」が重要句。みかんの香りを嗅いだ瞬間に、子どもが死んだ冬を思い出して泣き出しそうになる。そんな気持ちを詠んだ歌と聞き、15,6歳の私は、わが両親を想って涙ぐみました。この歌、みかんの香りをなつかしむようなものではないと思います。

    • 富永様

      コメントありがとうございます。
      そのような背景を持って詠まれた歌でしたか。
      勉強不足で申し訳ございません。

      書き添える事があるとすれば
      「芸術に正答は無い」ということです。
      音楽、美術もそうですが、誰もがその作者の本意を全て識っている訳ではありません。
      こちらで掲載している文章も含めてですが、
      表現者としていったん世に出した以上、その評価は個々に委ねられることとなります。
      私も、いったんこちらで文章として書いた以上、批判も含めて公開して受け止める所存です。

      富永様がご不快になった事は大変申し訳なく想います。
      木下利玄さんご本人や富永様にとっては、涙の歌だったのですね。
      もし、言葉遊びとしての引用と思われるのであれば、それでも構いません。

      しかし、背景を識った事で、夢が壊れる事もございます。
      識ればそれが全て正しい、という事になれば
      芸術家の創作のほとんどは悉く否定され、
      また、鑑賞に値する知識を持つ方の門戸がどれだけの狭きものとなりましょうか。
      作者の思いももちろん大事ではありますが、それだけに固執すると大事を見誤ります。
      感性は皆、個々それぞれにあるものですから。

      「物知らずだなぁ。
       でも、この人はこの歌でそう感じたのか。」で、良いのでは無いでしょうか。

      富永様の一方ならぬ想いがあり、私にも一方ならぬ想いがある。
      例えそれが両極端であっても、
      この歌の価値はそれだけの広がりを許容する名歌だと言えるのではないでしょうか。

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